すしの歴史とそのルーツは?すしマニアが詳しく解説

握りずしから巻きずし、なれずしなど、すしは日本人が愛する伝統料理。普段何気なく食べているすしですが、その歴史は意外と知らないという人も多いかもしれません。

ここではすしに関する本を多く出版してきたすしマニア編集部がすしの歴史とそのルーツについて解説していきます。すしに詳しくなりたい人におすすめ!

すしのルーツはどこ?

画像素材:写真AC

すしはいつから「すし」と呼ばれるようになったのか。その前にすしのルーツを調べてみましょう。といってもルーツはあまりはっきりしてません。

おそらく、東南アジアのどこかの山の中に住んでいた民族が川魚を保存するために、米などの穀物を炊いたものに魚を漬け込んで自然発酵させたものが始まりだとされています。現在の東南アジアにも同様の食べ物が残っているし、日本でも近江の鮒ずしや、鮎を使った熊野のなれずしはすしのルーツそのものと言っていいでしょう。つまり、当時のすしは「魚肉の漬物」です。

このすしのルーツが古代中国へ伝わりました。ここでも粟・稗・米などの穀物を炊いて、それに塩をふった魚(主に鯉など)を漬け込んだのです。そして、「鮨」という漢字名が作られました。

画像素材:写真AC

鮨は中国北方で用いられた漢字で、「鮓」は南方で用いられた文字だと言われます。鮨の字のつくりである「旨」には「ものを熟成させる」という意味があり、鮓の「乍」には「ものを薄く剥ぐ」という意味が。いずれも2000年以上前に作られた文字であることが、古い辞書に載っていることからも明らかです。

それが大陸文化の1つとして古代日本に伝わりました。そして、文字とともに日本を代表する食文化に。しかし、文字を作った中国では、すしという料理自体が跡形もなく消えたというから不思議ですね。

かつて「すし」は税金として納められていた?

画像素材:写真AC

すしがわが国の歴史に初めて名を残したのはいつなのか。最初の文献は『腑役令(ふえきりょう)』。これは大化の改新から73年目、元正天皇の養老2年(718年)に制定された『養老律令』巻十、租税を定めた文献です。ここに「鰻鮓 二斗 蛤貝鮒 三斗 雑鮨 五斗」と記されています。あわびずし、いがいずし、ざつのすし……といずれもすしです。この時点でこれらが租税、つまり朝廷への税として納められていたのです。

画像素材:イラストAC

鮨と鮓は、中国で作られた名前をそのまま使っています。したがって、東南アジアから古代中国へと伝わったと思われる魚介類の「漬物」、すなわち発酵食品と同様のすしであったと考えられます。興味深いのが、中国では主に川魚を使用していたのが、ここでは海産物で、それも貝が使われていること。

さて、これ以降、「鮨」「鮓」の文字が様々な文献に登場します。

画像素材:写真AC

平城宮址から発見された木簡(荷札)には、その荷物の中身である多種多様のすしが記されています。このことから、当時からすしは日本人に好まれ珍重されていたかが分かりますね。その中で海産物では貝類が多め。また、鯛も多く使われていました。一方、川魚では鮎が好まれていて、各地の名産的な鮎が次々と登場。中国の鯉に対して日本の鮎という対比が興味深いですね。

さらに、日本では鮒、なまず、どじょうなどもすしの材料となりました。あまり知られていませんが、なまずやどじょうのすしは今も現存しています。

現在のすしのルーツは、室町から安土桃山時代に登場

画像素材:写真AC

すしのルーツは、東南アジアから古代中国へと伝わり、さらに日本へと渡来したと思われる魚介類の漬物、すなわち一種の保存食であり、現在では近江の鮒ずしや熊野のなれずしとして残っています。

なれずしの場合、米や穀物などは捨てて魚介類だけを食べていましたが、漬け込み期間が短くなり、鎌倉時代から室町時代の頃には飯も捨てずに一緒に食べるようになりました。これが生成ずしと呼ばれるもの。生成とは未熟、未完成の意味で、なれずしが漬け込みに1年近くを要したのに対し、生成ずしは10日ほどで食べられました。

画像素材:写真AC

そして、さらにすしの歴史にとってエポックメイキングとなる時代に入ります。室町時代から安土桃山時代にかけて、米の炊飯方法が「蒸す」から現在の「煮る」に変わりました。加えて「酢」が市場で流通するように。

そうした変化を踏まえて、現在のすしの原型となるものが誕生。これが飯ずし。この名前から想像できるように、魚介類ではなく飯が存在を主張するようになりました。使用するすし飯の量が増え、そのすし飯には酢が加えられて酢飯となり、その飯を魚介類と合わせるものです。

画像素材:写真AC

現在の関西にある鯖の棒ずしや小鯛の雀ずしを思い浮かべてみてください。これらは飯ずしに限りなく近いもので、飯の上に魚介を並べて押し付けたもの。その魚介を食べやすく薄く平らに切ったものである柿ずしとなり、さらに飯を箱に詰めて、その上に魚介を置いて押す箱ずしへと発展していきました。

握りずしのルーツである「江戸前ずし」は今とは別物!

画像素材:写真AC

握りずしとは、江戸前すしのこと。ではまず、その「江戸前」とはどういうものなのでしょうか。そもそも江戸前という言葉を最初に使ったのは鰻屋でした。

鰻の串刺しが蒲の穂に似ていることから、これを「蒲焼」と呼び、その鰻が獲れるのが江戸(城)前であることから、「江戸前」となりました。江戸前はどんどん範囲を広げ、江戸の前の海で獲れる魚介類全てが江戸前と呼ばれることになりましたが、握りずしの人気が高まるとともに、江戸前の呼称はもっぱら握りずしに使われるようになったのです。

画像素材:写真AC

この江戸前ずしは握った酢飯の上に魚介類の切り身を載せて、よく握り合わせるというもの。これは現在のすしと同じですが、誕生したの頃の握りずしと、今われわれが食べている握りずしとは、かなり大きな違いがありました。

実はこの時代のすしはすし飯に具が混ぜてあったのです。これは味を補う目的があり、例えば、甘辛く煮た椎茸を細かく刻んだものや海苔を加えたり、いろいろな白身魚のすり身から作ったオボロ(そぼろ)を載せたりといった具合。今の感覚では驚くほどの大きさで、当時の大人の男でもひと口半で食べるものとされていました。それだけすし飯の量が多く、4個食べれば満腹だったといわれます。

また、冷蔵や冷凍という保存技術がなかった時代だから、生のまま使うことはほとんどなく、魚介には塩をきかせたり、酢漬けにしたり、「ヅケ」と呼ぶ醤油漬けにしたり、といろいろと工夫がこらしてありました。

意外や意外!すしの全国普及は、第二次大戦後から

画像素材:写真AC

実は江戸前の握りずしが全国に普及したのは、第二次世界大戦中および戦後の食糧事情の混乱が原因でしたと言うと、意外に感じる人も多いのではないでしょうか。逆に言えば、それまで握りずしは東京を中心とした地域に限られ、その他の地域は独自のすしを食べていたのです。

戦中戦後、日本では主食の米をはじめとした食料は厳重な統制下に置かれ、国民は乏しい配給によって辛うじて生きていました。飲食店は公然と商売ができず、戦中から転廃業や休業を余儀なくされ、もしくは闇で商売をするしかなかったのです。

画像素材:写真AC

ところが、いつ誰が考えたか不明ですが、こんな商売のシステムが誕生しました。客が米一合を持参すれば、すし店は魚介の代金と加工賃に見合う米を差し引いて、握りずしを提供するというもの。

これが許可されて、「委託加工制」と名付けられ、飲食店の中ではすし店のみ堂々と商売が再開できたのです。ちなみに米一合と交換できる1人前の握りずしは、海苔巻きを含めて10個。これが後のすし1個の大きさと10個という基本数を決め、現在もなお1人前のすしの基本型として維持されています。

そして、全国に「江戸前ずし」が普及していった

最後になぜ江戸前の握りずしが全国に替及したのか?それには理由があります。委託加工は江戸前ずしにのみ許可されたので、全国のすし店はこぞって江戸前ずしを握ることになりました。それが続いた結果、制度の廃止後も、江戸前すしは全国に定着しているというわけなのです。

よって、日本全国で江戸前ずし、つまり「握りずし」が食べられるようになり、現在に至るのです。

※画像はイメージです
※「食の雑学達人になる本」に掲載した内容を再編集しています