ラーメンの歴史とは?カン水をテーマにラーメンマニアが解説
中国の様々な麵料理、そして特にラーメンの麵に欠かせない素材であるのがカン水。日本のラーメンの歴史もカン水とともに歩んできたのです。
ここではラーメンに関する本を多く出版してきたラーメンマニア編集部がカン水を通じたラーメンの歴史を解説していきます。ラーメンに詳しくなりたい人におすすめ!
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中華麺に欠かせない「カン水」はいつ発明されたの?
カン水は、内モンゴルなど中国大陸奥地の湖沼から湧くアルカリ性の水(炭酸ナトリウムや炭酸カリウムなどを含む)であり、実は約1700年前から小麦粉のこね水として使われてきました。
中国の麵独特のコシと独特の風味には、カン水の成分が不可欠。このためラーメン(中国の麵)の発展には、カン水(またはカン水に代わるもの)が欠かせなかったのです。
江戸時代:代用カン水で中華麺を再現
江戸・元禄の頃、水戸光圀が中国の麵料理を食べたことはよく知られていますね。
しかし、ここから200年後の明治を待たないと、中国の麵料理は国内で普及しません。麵が特別な料理である中国料理の一分野であったこと、現在と比べて中国との貿易量の少ないこの時代、カン水の確保が困難だったことも普及が遅れた理由として考えられます。
その証拠に、カン水に代わる材料として、明治までは木を燃やした後の灰で作る灰汁が様々に工夫され用いられていました。材料には、水戸では藪や椿、鹿児島では椎、「沖縄そば」にはサトウキビの灰が使われたとされます。
明治時代:「支那そば」の誕生
明治中期には、中国人雑貨商が日本で商売を始めるようになり、同じ中国人相手に、ようやく中華風の麵料理を売る店が登場し始めました。この頃のラーメンは本場風に、塩味のタンメンだったとされます。
こってりした脂の甘みとうま味の中国の麵料理を、麵好きの日本人が見逃すはずはなかったようで、日露戦争後は、早くも麵の屋台が登場。東京の街でチャルメラの音が聞かれたといわれます。明治43年には浅草で『來來軒』が開業。醬油味のスープにチャーシュー、支那竹、ねぎが浮かぶ、東京ラーメン(当時は「支那そば」)がここで初めて誕生しました。
大正時代〜昭和初期:カン水が市販され、ラーメンが全国的に普及
大正12年には、日本人初のカン水業者が横浜と深川に誕生。関東大震災後は、職を失った人達が低資金で開業できる屋台のラーメン店が急増します。
ラーメン店は各地に増えたのですが、カン水業者は昭和初期に東京で7軒しかないといった状況でした。当時は化学的な知識がなく、経験と勘で薬品を配合していたため、カン水は高価で売っている店も少なかったといわれます。原料規制もなかったので、戦前は自家製麵の飲食店では洗濯ソーダを使った所もあり、そうした方法を紹介した料理本まであったそう。
昭和中期:ラーメン店が激増
戦後の小麦の統制解除と平行して、ラーメン店が激増。「屋台貸出業」なる商売も登場するほど。手軽でお腹にたまるラーメンは、戦後の人々の食欲を満たす恰好の食べ物でした。カン水業者も東京だけで30社も存在したほど。しかし、一部製麵業者とカン水業者の間では、食用に向かない原料(苛性ソーダや珪酸ソーダなど)を使った所もあったそう。
こうした問題から、昭和25年にはカン水の原料指定の行政指導が、次いで32年には検査制度が実施。人体に害を及ぼす恐れがないと厚生省が認めたものがカン水の原料として指定・検査されます。しかし、以後もカン水有害論はくすぶり続けました。
昭和後期:ラーメンブームの到来
一方、ラーメン人気はさらに拡大。特に昭和33年に登場したインスタントラーメンにより、「ラーメン」の知名度が高まり、全国規模でのラーメンブームの下地ができあがります。
昭和40年代には、札幌ラーメンの東京での紹介を機に「札幌味噌ラーメン」が全国ブームに。続く昭和60年代には豚骨ラーメンに人気が集まります。このように、戦前に各地に広がったラーメンは、つけ麺やまぜそばなど、熱狂的なブームとなって何度も全国に広まっています。
※画像はイメージです
※MOOK「料理と食シリーズNo.24 最新人気のラーメン」に掲載した内容を再編集しています