和菓子の歴史とその始まりは?お菓子マニアが詳しく解説
羊羹やカステラ、お団子、どら焼き……昔から日本人に愛され続ける和菓子は種類もさまざま。ところで、和菓子はいつ誕生して、いつ現在のような形になったのでしょうか?
ここでは和菓子に関する本を多く出版してきたお菓子マニア編集部が和菓子の歴史とその始まりについて解説していきます。和菓子に詳しくなりたい人におすすめ!
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奈良時代:もともと「菓子」は甘くはなかった
和菓子という呼び名は、もちろん洋菓子に対する名で、実はそう古い言葉ではなく、使われ始めたのは大正時代末の頃。しかし「菓子」となるとかなり古いんです。菓子は初め「果子」の字が当てられていました。すなわち、木の実や草の実など果物のことを指していたのです。果物が現在の意味でいうところの菓子でした。実際、今でも料理店では食後のフルーツのことを「水菓子」ということもありますよね。
また、今でこそ菓子は甘いものですが、本来は食事と食事の間の、小腹を満たす軽い食事としても位置づけられていました。必ずしも甘くなくてもよかったのです。これは、江戸時代頃まで続いてきた認識だったのです。
その証拠が奈良時代、朝廷には調理を担当する部門がいくつか置かれ、その一つに「主菓餅(くだものつかさ)」と呼ばれるところがありました。ここで果物や雑餅などが加工されていたのです。この雑餅とは大豆餅や小豆餅などで、いずれも甘い菓子ではありませんでした。奈良時代においては、菓子は甘いだけのものではなかったのです。
一方、菓子には甘いものもありました。平安時代に記されたわが国最古の法令集『延喜式』には、諸国貢進菓子つまり、日本各地の名産菓子として、ヤマモモ、栗、梨、アケビなどの果物とともに、「甘葛煎」の名があります。これは甘葛の汁を煎じ煮詰めた当時の貴重な甘味料でした。
平安時代:「唐菓子」が宮中で人気に
中国から仏教文化とともに7〜8世紀にかけて伝わった菓子がありました。 遣唐使が持ち帰った大陸伝来の菓子は、元々の木菓子と区別して「唐菓子」と呼ばれました。
『源氏物語』の中では、「粉熟」という唐菓子が登場しますが、これは米粉などをこねて茹でて、甘葛をかけてこね合わせたものを、竹の筒に入れて、しばらくしてから突き出して切ったもの。 このように、唐菓子の多くは米粉や小麦粉をこねて形を作り、油で揚げるか炒めるか茹でるかしたものでした。これらの菓子のほとんどは、宮中で用いられ、一般庶民の口には入らないものでした。
鎌倉〜室町時代:食事から間食へ
中国料理の点心といえば、餃子やシュウマイなどを思い浮かべますが、点心が日本に初めて伝わったのは鎌倉時代で、中国から仏教の一派、禅宗が日本へ渡来するとともに伝わってきました。
点心は禅宗が行う喫茶の風習の一要素で、軽い食事のことを指します。点心の種類として最も多いのは、トロみのある汁物で、次いで麺や餅、饅頭類など。ちなみに、この時は餃子やシュウマイはありませんでした。
饅頭といっても、現在認識されているような菓子ではなく、食事用の食べ物でした。 野菜類を中身とした菜饅頭や、砂糖を入れた砂糖饅頭のようなもので、これに味噌ダレの汁などをかけて食べていました。これが菓子用の食べ物になったのは、室町時代末期から江戸時代初期にかけて。その時期に現在のような小豆の餡に近い具材を入れた饅頭が作られるようになったのです。
室町時代に『尺素往来』という書物がありますが、その中に様々な点心が紹介されています。「茶子(お茶うけのこと)」としては、海苔や昆布、栗など甘みが少ないもの、素朴なものが多かったのです。
安土桃山時代の茶の湯の大立者・千利休が茶会に出していた茶子も、小麦粉を水で練って焼いた麩の焼に味噌を塗って巻いたものや、栗、椎茸、昆布など、現在の茶道で用いられる菓子とは違い、素朴なものでした。
室町時代〜安土桃山時代:南蛮菓子の到来
安土桃山時代を前後して同様の大きな影響を与えたのが南蛮菓子です。 1543年、ポルトガル人が種子島に漂着したのをきっかけに、西欧、特にポルトガルやスペインの南蛮文化が日本へ流入するようになります。
食べ物関係では、Pao (パン)、Tempero(天ぷら)、Bolo(ボーロ)、 Castilla(カステラ)、Biscouto(ビスケット)、Caramelo(カルメラ)、 Alfeloa(有平糖)、Confeitos(金平糖)などが、代表的なもの。この中でも菓子に該当するものを南蛮菓子と呼びました 。
日本を訪れる南蛮人は、キリスト教の布教を目的とする宣教師や貿易商たちでした。 宣教師は、その時の権力者に日本で布教活動を行なうための許可や援助を求める必要がありました。それを申し出る際に手土産として欠かせないのが、南蛮の珍しい物品を贈ること。その中に南蛮菓子もありました。
1569年、宣教師のルイス・フロイスが織田信長に布教の許可を求める面会の際に、金平糖入りのフラスコを献上したという話がよく知られています。
江戸時代中期:和菓子が全国で普及
甘みが決め手の菓子にとって、砂糖が最重要な要素であることはいうまでもないでしょう。日本において、砂糖の供給が増えて菓子の発展にとって大きな推進力になったのは、江戸時代中期、元禄年間(1688〜1704年)のこと。
この時期になると、中国やオランダから白砂糖の輸入が増加。加えて、国内の黒砂糖の生産量が増えてきました。後にこの国内生産を奨励したのが八代将軍、徳川吉宗でした。
砂糖の供給量増加により、様々な甘い菓子が登場し始め、それまでの間食のイメージから、甘さを求める嗜好品としてのキャラクターが強くなっていきました。
各藩も独自の菓子開発を行ない、参勤交代の際にこうした名産菓子を将軍への献上品として持参。これが珍菓子として評判を得て、地方の名菓として江戸で人気を集めました。これがまた、地方の各藩での名菓開発に拍車をかけ、菓子の種類と生産量が急速に発展し拡大していく推進力になったのです。
江戸時代後期:庶民も楽しめる菓子が登場
江戸では、京都の雅な京菓子に対して大衆的な菓子に人気が高く、そうした江戸の菓子も誕生していきます。芝居や見世物、相撲興行など庶民の娯楽が盛んになった元禄時代以降はまた、菓子も庶民の楽しみの一つとして広がっていった時期でした。菓子は元禄時代に大きく発展し、それは江戸時代後期の文化、文政から天保年間(1804〜1844年)にかけて、著しく成熟していきます。
この時代は爛熟と退廃の時代だったと後世の歴史家は言いました。浮世絵や草双紙に代表される出版物が盛んに出ていて、料理書や菓子関連の書物も出版されたのです。
また、当時の「上菓子屋」は注文を受けてから菓子を作るという、今で言うオーダーメイド手法を取るというこだわりぶり。注文を取るために、菓子の絵図や名前を記した見本帖まで作っていた。まさに爛熟と言えるでしょう。 一方、大衆の菓子も成熟拡大し、今で言うグルメガイドや人情本に紹介されるほどの人気に。
そして、日本の伝統菓子は「和菓子」へ
江戸時代後期には天保の飢饉がありました。地方では餓死者が出るような悲惨さにもかかわらず、江戸の町では平常の倍の値段になった、わらび餅、力餅、カステラ、どら焼がよく売れたと伝わります。もっとも「米飯の節約のため」という言い訳が同時に付いていたのですが、庶民でも大金を出しても菓子が食べたいという人もいた様子。
明治になると、チョコレートやビスケット、ケーキなどが入ってきて、それまで存在していた菓子は「和菓子」と呼ばれるようになりました。そして、現在は伝統的な和菓子だけでなく、洋菓子などと組み合わせた、様々なフュージョン菓子が誕生するようになりました。
※画像はイメージです
※「食の雑学達人になる本」に掲載した内容を再編集しています
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