江戸時代の菓子はどんなもの?歴史とともにお菓子マニアが解説

団子、わらび餅、カステラ、どら焼など、今でも人気の和菓子は江戸時代に発展したもの。江戸時代はどんな菓子が食べられていたのでしょうか?

ここでは和菓子に関する本を多く出版してきたお菓子マニア編集部が江戸時代の菓子について解説していきます。和菓子に詳しくなりたい人におすすめ!

室町時代〜江戸時代初期:南蛮菓子の登場

画像素材:写真AC

まず、江戸時代の菓子について、原型となったのは室町時代に到来した南蛮菓子。1569年、キリシタン宣教師のルイス・フロイスが、織田信長に布教の許可を求めたときに、コンフェイトス(金平糖)入りのフラスコを献上したという話は有名でですね。

他にも菓子では、Bolo(ボーロ)、 Castilla(カステラ)、Biscouto(ビスケット)、Caramelo(カルメラ)、 Alfeloa(有平糖)などが、代表的なもの。これを南蛮菓子と呼びました 。

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ちなみに、金平糖を初め南蛮葉子の製法について詳しい記述がみられるようになるのは、100年以上時代が下った元禄時代あたりから。

元禄の俳人であり、浮世草子作者である井原西鶴は『日本永代蔵』の中で金平糖の製法を細かに紹介しているし、『本朝食鑑』(1695年)では、南蛮菓子について

「小麦粉に砂糖や丁字、肉桂などを加えた乾菓子」

という記述があります。厳しいキリシタン弾圧の中でも、南蛮渡来の菓子に対する人々の興味はつきなかった様子。

江戸時代中期:製糖技術が発展し、菓子は大きく発展

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茶の湯は、当時の上流階級の「サロン」としての性格も持っていました。このため密談の場として、戦国時代頃から、盛んに武士階級もたしなむように。そして戦乱の時代が過ぎ、江戸時代に入ると、茶の湯を通して大名たちの手によって、菓子はさらなる新たな発展段階へと入っていきます。

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菓子の発展過程において、画期的な変化が現れるのは、元禄期以降。この時期、中国やオランダを通じて白砂糖の輸人が増加してくるのに加え、慶長年間に始まったとされる国内の黒砂糖製造は、元禄年間(1688~1704)には生産量が拡大していきます。さらに、その後、八代将軍吉宗が砂糖の製造を奨励したこともあり、依然として貴重品ではあるものの、砂糖は普及していくことに。

砂糖が使えるようになったことは、それまでの菓子にとって、まさに一大変革のきっかけとなりました。この時期以降、様々な種類の甘い菓子が登場するようになり、菓子はそれまでの小腹を満たす「間食」から、甘さを求める嗜好品としての性質が強くなっていきます。まさに菓子の「大成期」を迎えました。

江戸中期:参勤交代を通じて「名菓」が各地へ。菓子は大衆に拡大

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世の中の平和が続くとともに、一大消費都市としての性格を持つ江戸においては、京都の菓子職人が呼ばれたり、京都から移住したりする者もいたりして、菓子が将軍家に伝えられ、さらに茶の湯に熱心な大名は都の菓子職人ごと召し抱えて領地へ帰っていきました。

各藩は領地発展のために菓子などを含む特産物開発の奨励を行い、この菓子を参勤交代の折、大名は領地の珍菓子として将軍への献上品と、これが評判を得ることで、地方の「名菓」が登場します。

そして、東北一の城下町・仙台では特産物を使った、仙台の歴史や伝説を物語る駄菓子が次々と生まれていきました。

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こうした時代だから、各地で菓子屋が増え、和菓子の種類と生産量は急速に発展拡大していきます。菓子が大成期を迎えるとともに、将軍のいる江戸では、雅びな京菓子に対して大衆的な菓子が盛んに作られるようになりました。さらに、町人階級の実力が高まったこの時期は、かつては宮廷や将軍家の行事であったものが民間にも伝わり、3月3日の菱餅、5月5日の粽(ちまき)なども一般化していきます。

寺社門前には屋台が増えていきました。昔から親しまれていた饅頭に加え、この頃はきんつばなどが、庶民に親しまれました。町市では振売(行商人)が登場し、飴、おこし、餅やところてんなどの販売が行われることに。いつの時代もレジャーに菓子はつきもの。

芝居や見世物、相撲興業など、娯楽も盛んになる元禄期は、菓子を大衆の「楽しみ」の一つとして広がっていったのです。

江戸時代後期:菓子は大衆層に拡大・発展

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元禄に発展した菓子は、江戸後期の文化・文政から天保(1804~1844年)にかけて、さらに普及していきます。

特に「爛熟と退廃の時代」といわれるこの頃は、浮世絵や草双紙に代表されるように出版物も盛んで、料理書や菓子書も出版されました。当時の上菓子屋は、注文を受けてから菓子を作る手法をとっており、注文のため、菓子の絵図や名を記した見本帖(今日でいうパンフレット)を作っていたというほど。

一方、大衆の菓子は、『早見道中記』や『東海道中膝栗毛』に代表される、現在でいうグルメガイドに登場したり、『春色梅児譽美』などの人情本でも紹介されたりするように。

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時代劇で茶店で団子を食べる風景がよく見うけられますが、こうした光景はこの頃のもの。大阪や京都の茶店では茶に菓子や団子を売り、一杯5文から高くて10文。江戸では16、17歳くらいの着飾った女性がいるお店があり、こういったお店ではなんと24文から50文もしたというから驚きですね。

天保期に入って飢饉が続くようになり、村落では餓死者が出たこの時期でも、町中では米飯の節約のためにと、わらび餅や、カステラ、どら焼などは、平常の倍の値段になったにもかかわらず、よく売れたというほど。

明治以降も和菓子は西洋菓子に負けない人気カテゴリー

江戸中期以降、庶民層へ拡大・定着した和菓子は、茶の湯に、おやつに、贈答に、そして土産用にと、様々な用途に使われ、さらに発展していきました。明治になると文明開化の時代を迎え、西洋菓子が流入してくるものの、依然として和菓子は、大衆のものとして人気を博していくのです。

※画像はイメージです
※MOOK「料理と食シリーズNo.15 和菓子」に掲載した内容を再編集しています