チョコレートの歴史とは?もともとは薬だった?お菓子マニアが解説

チョコレートはお菓子というカテゴリーの中でもトップクラスの人気を誇ります。西欧から伝えられたものということは知られていますが、その歴史って意外と知らないですよね。

ここではスイーツに関する本を多く出版してきたお菓子マニア編集部がチョコレートの歴史について解説していきます。チョコレートに詳しくなりたい人におすすめ!

発祥:チョコレートはもともとは薬だった?

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まず、チョコレートの原料であるカカオについて解説していきましょう。カカオの木が育つのは、赤道を挟んで北緯・南緯ともに20度の間の、高温多湿の土地に限られています。このため現在では、中南米諸国、アフリカ中西部、インド西部、東南アジアなどが主な生産地。

チョコレートを食物として捉えたのは南米・メキシコが最初だと考えられます。古代メキシコにおいて、13~16世紀に栄えたアステカ帝国では、チョコレートの木の種子であるカカオ豆を、伝説の神ケツァルコアトルが人間に与えた賜物として尊び、薬や通貨としても用いていたとされています。

当時のカカオ豆は、今日のように甘いお菓子の材料として使われるのではなく、薬(強壮剤のようなもの)として、しかも食べ物ではなく飲み物として多く用いられました。

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その作り方としては、まずカカオ豆を石臼などですり潰し、バニラ、胡椒、薬草類を合わせ、水を加えてよく泡立てたもので、トウモロコシの粉を加えることも。この飲み物は「チョコラトル」と呼ばれ、甘くなく、スパイシーで苦みがある、こげ茶色の飲み物でした。アステカ王モンテスマは、こうした飲み物を、黄金の杯で日に50杯も飲んでいたそうです。

大航海時代:チョコレートのレシピは「国の最高機密」

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16世紀のヨーロッパ大航海時代を通して、チョコレートはヨーロッパ、中でも新大陸発見に力を注いだスペインに知られるようになりました。フェルナンド・コルテスがアステカ帝国を征服してカカオ豆をスペイン宮廷に持ち帰ると、その強壮作用にスペイン王は虜になり、以後100年にわたって、チョコレートはスペイン王の秘密とされていました。

しかし17世紀に入り、スペインのアナ王女がフランス・ルイ13世に嫁ぐ際、 レシピがフランスに伝えられ、ヨーロッパ全土の、特に宮廷の女性たちに広まっていったのです。

17世紀:チョコレートで作ったお菓子が登場

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チョコレートは、様々な人物によってヨーロッパ全土に広まっていきました。フランスの啓蒙思想家・ヴォルテールは、『百科全書』に「ココアは老人の乳」と記し、ドイツの名医・リービッヒもその効用を讃えました。ナポレオンも、栄養と精力の回復増進のためにチョコレートをよく用いたというほど。

17世紀に、修道女の手によってチョコレート菓子のレシピが考案されました。ここで初めて薬よりお菓子として認められていくようになりました。すりつぶしたカカオ豆に砂糖などを加えて丸めたショコラ・ド・サンテは、マリーアントワネットが好んで食べたことで知られます。

19世紀:粉末ココアとミルクチョコレートが開発される

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チョコレート業界に一大革命をもたらしたのが、オランダのヴァン・ホーテンです。1826年に開発された新技術で、カカオ豆の脂肪分を取り除き「粉末ココア」を作ることに成功。またカカオ豆にアルカリを加えて中和させるダッチングという方法も編み出しました。

こうした技術により、1842年にイギリス・キャドバリー社がイーティングチョコレートを開発。また約30年後の1875年には、スイスでミルクチョコレートが開発されました 。

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現在では主流の「食べるチョコレート」ではありますが、実は飲むチョコレートに比べると、食べるチョコレートははるかに歴史が浅いのです。ようやくこの頃になって食べるチョコレートが登場してきました。

このように、ヨーロッパ大陸でのチョコレート開発に傾ける情熱は非常に大きなものがありました。現在でも、欧州では米国に比べても特にチョコレートの消費量が多いことで知られます。スイスなどではチョコレートの自販機が街中でみられるほど。生活に密着した食べ物になっているのです。

江戸時代:日本にチョコレートが伝わる

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それではチョコレートは日本にどのようにして伝えられたのでしょうか?日本にチョコレートが伝わったのは江戸時代初期といわれます。

最初に食べた日本人は、慶長18(1613)年、慶長遣欧使節の正使としてスペインへ渡った仙台藩士・支倉常長であるといわれています。スペインへ向かった支倉常長は、旅の途中でノビスパン(当時のメキシコ)を経てスペインに到着。幕府の正使として、スペインでは国王フェリペ3世に謁見、藩主・伊達政宗への親書を受け取った支倉常長が、立ち寄り先のメキシコ(カカオ原産地)、スペイン(チョコレートの本場)の長旅の中で、歓待に出された特産物の中に、チョコレートが入っていないはずはなかったと考えられます。

その後日本に上陸したチョコレートは、『長崎寄合町諸事書上控帳』(長崎の遊女の貰い品目録)などに「チョクラート」という文字で登場します。

明治〜大正時代:日本初の「国産チョコ」が登場

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明治時代になると、チョコレートは半製品として国内に輸入されるようになりました。その時の商品名は「貯古齢糖」「知古辣」「猪古冷糖」…などの当て字が主流。

国産チョコ第1号は、明治11(1878)年に東京・両国の『米津凮月堂』で販売されたもの。ただしこの頃も、チョコレート原料を輸入していたため、純国産はさらに40年以上かかりました。純国産第1号チョコレートは、カカオ豆からの生産をスタートさせて大正7(1917)年に発売された「森永ミルクチョコレート」。また粉末ココアは、翌年の大正8年に、やはり森永が発売しています。

昭和時代:チョコレートの本格上陸

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日本にチョコレートが本格的に上陸するのは、終戦後の進駐軍の手によるもの。当時「ギブ・ミー・チョコレート」という言葉が流行ったように、敗戦国の貧しい子供たちにとって、チョコレートは舶来の贅沢な食べ物でした。この時の進駐軍のチョコレートこそが、「ハーシー」。この製品は1894年から発売されたもので、創業者のミルトン・スナヴェリー・ハーシー氏から名をとって付けられたもの。今でもブランドは残っていて、ミルクチョコレートやアイスバーでもおなじみですね。

現在:チョコスナックの登場で庶民に愛されるスイーツに

こうして日本に本格上陸したチョコレートは、昭和35(1960)年のカカオ豆自由化を機に、本格生産されるようになりました。それ以降、登場したチョコスナックは、駄菓子からお土産まで各メーカーから様々なバリエーションが誕生。お手軽な価格で手に入るので子供のお小遣いでも購入できるようになり、現在にいたるまで人気を集めています。

※画像はイメージです
※MOOK「料理と食シリーズNo.13 コーヒー」に掲載した内容を再編集しています